5,日本の麺と味噌・醤油

5,日本の麺と味噌・醤油

索餅、素麺、うどん、そば

細い麺類で日本で一番古いものは索餅(さくぺい)といわれ、太い素麺(そうめん)のようなもので、麦粉で作ることもありますがだいたいは米粉で作ります。米粉を練って長いひもにして、それを蒸して味噌のタレ(汁)をつけて食べます。
 素麺は、禅とともに日本に入ってきました。小麦粉に油・塩を練り込み引き伸ばして細くし、乾燥して食べる保存用の麺です。これも古くは味噌タレで食べたといいます。
 江戸時代に入り、伸ばして刻んだいわゆる”切りそば”,”切り饂飩(うどん)”が禅宗寺院の料理法から広まり、素麺」「うどん」「そばができました。この頃になって醤油タレで食べ始めます。「そば」は日本人しか食べない食品のひとつと思われていますが、元々は中国の雲南省あたりから中国の北部を経て日本に入ってきたといわれます。因みに”饂飩”は中国の呼び名です。

魚醤草醤穀醤 そして 醤油

日本の味と称される世界的調味料である醤油は、日本人の発明品です。東南アジアの照葉樹林帯文化が入って来たと同じ時期に、北から来た”そば”と南から来た発酵食品文化が日本で鉢合わせします。すると、日本人はそれを一緒にして”そば””うどん”などを醤油タレで食べ始めたのです。
 日本人の舌が最初にグルタミン酸ナトリウムとアミノ酸を探り当てたのは、魚から発酵抽出した調味料の魚醤です。今日でも裏日本の一部、特に秋田山形新潟の一部の地方に限って使用されている塩汁(しおっつる)はこの魚醤の系統で、魚の生肉を発酵させて抽出したもので、秋田料理の”しょっつる”のうま味がこれです。今では使用されていませんが、草醤(くさびしお)という野菜類を発酵抽出した醤油がありました。 この草醤魚醤対して、穀物を原料とする穀醤、これが大豆を原料にした発酵抽出醤です。
 このタンパク質を発酵させるというアイデアの原形は、アジア照葉樹林帯文化のもたらした知恵ですが、それを利用して日本人は醤油を作り上げ、、ついには日本を代表する味として定着させていきました。醤油のうま味は単なる味でなく、グルタミン酸ナトリウムアミノ酸によるうま味成分で、人間の成長発育にとって非常に重要な役割をもった調味料なのです。

薄口醤油、溜醤油、濃口醤油

さらに日本人は、発酵を止めるためと塩自体を保存するために、用いた塩分の量などを加減することによって何種類もの品種をつくり、目的に応じた醤油をつくりあげました。銘柄によっていろいろ複雑な種類がありますが、大雑把には三つの系統があります。
 関西を中心とする薄口醤油、中部日本を中心とする溜醤油、東日本を中心とする濃口醤油の三つです。
 薄口は、大豆を炒らないで塩分を少なく、グルタミン酸ナトリウムとアミノ酸は同量にしてあります。溜は、大豆を炒って黒みをつけながら濃くしぼったもので、濃口は、塩分を強くして黒みをとくに強めたものです。これは風土の味覚、好みに合わせて作られたものですが、そこには深い必然性がありました。

塩の保存 と 味噌・醤油

関東の山地地方の上州、甲州、信州などは、塩の輸送には不便なところで塩が断絶する可能性があるために、塩の保存法として味噌や醤油の塩分を強くしました。
 昔、武田信玄上杉謙信との戦いで武田軍への塩の供給が絶たれたために、一時戦いを中断して上杉が武田に塩を送った話は有名です。 また、溜醤油の分布圏では有名な岡崎八丁味噌があり、これは黒系の味噌で塩分が強いものです。信玄味噌は、塩分が強く黄色系味噌ですが、これが濃口醤油の起源といわれています。

塩分補給の知恵!

食塩や穀物の保存目的で作り出された濃口の味噌・醤油は、やがて、関東地方の気候や風土性の影響を受けて定着します。特に上州(桐生周辺)は、寒さの厳しいところで、からっ風によって体感温度は強烈に寒さを感じさせます。そこで血液内の塩分量を高めると、燃焼作用が盛んになって体温が上昇します。つまり体温を高めるために塩分の多量摂取をして寒さに耐えていたのです。また、夏の猛暑でたくさん汗を出し、体内塩分が失われた時に「冷たいうどん」を「濃口のだし汁」で食べることにより、塩分の補給ができ、心地よく最適な暑気払いができ、一年中元気に働いてきました。